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東京高等裁判所 昭和52年(ネ)2206号 判決 1978年12月21日

控訴人

横浜市

右代表者市長

細郷道一

右訴訟代理人

瀬沼忠夫

被控訴人

澤田傳

被控訴人

澤田美香子

右両名訴訟代理人

中丸荘一郎

下村文彦

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実《省略》

理由

一<証拠>によると、被控訴人らの三女澤田美佐代(昭和四三年二月二一日生)が、昭和四八年一月二五日午後一〇時一四分ころ、本件溜池の北側(道路側)で、その堤塘部分に設置されていた有刺鉄線柵が約二メートルにわたつて切断されていた箇所(取水口水門から東方約一〇メートルの地点)から南方約1.5メートルの水底から溺死体として発見されたこと、同女の全身外表に損傷異常がなかつたこと、同女の死亡の原因は溺死で、死亡時刻は同日午後二時ころと推定されること、以上の事実を認めることができ、また、右の事実によると、美佐代は、右有刺鉄線柵の切断されていた箇所から本件溜池の水面に転落して溺死したものと推認することができる(以下これを「本件事故」という。)。

二そこで、本件事故の発生した本件溜池が、控訴人の設置、管理する公の営造物に該当するか否かについて検討する。

(一)  <証拠>によると、国は、大正一一年三月三一日、本件土地を「公用ヲ廃止ノ上」という名目の下に、神奈川県都筑郡中川村に無償で下附し、中川村は、大正一二年六月二三日受付第一一七四号をもつて、本件土地につき所有権保存登記を経由したこと、市制第四条町村制第三条の規定により中川村は、昭和一四年四月一日、その区域が控訴人横浜市に編入され、中川村の財産(権利義務一切)はすべて編入当時の現在により控訴人に帰属したこと、控訴人は、昭和四〇年三月、本件土地が控訴人の土地管理台帳に登載されていなかつたことに気付き、そのころ訴外小泉測量設計事務所(測量責任者小泉晋)に本件土地(当時の登記簿上の地積一反五畝〇六歩)の測量図を作成させた上、本件土地を実測1508.62平方メートルとして控訴人の溜池調書に登載したこと、控訴人は、昭和五一年九月三〇日受付第三四一九九号をもつて、本件土地につき昭和一四年四月一日の帰属を原因とする所有権移転登記を経由したこと、控訴人は、国を隣接土地所有者として、昭和五二年一二月、本件土地とその周囲に所在する土地(地目法地)との境界を協議し、訴外有限会社小泉測量設計事務所(代表取締役小泉晋)にその測量図を作成させた上、昭和五三年一月九日、国(関東財務局横浜財務部長)との間で、本件土地(実測1509.85平方メートル)と隣接土地(法地実測1081.88平方メートル)との境界を右測量図表示のとおり確認し、合意したこと、以上の事実を認めることができる。

また、<証拠>によると、本件土地は、現在の公図上、ほぼ原判決別紙図面(二)記載の図面の斜線部分に位置し、これを現地で見ると、本件溜池の中に包含されて、本件溜池の大部分を占める上、その全部が溜池の水面下に没する位置に所在することとなる事実を認めることができる。

しかし、<証拠>によると、本件土地の上に形成された溜池は、今から約二三〇年前に既に存在し、爾来農業用灌漑用水として利用されてきたものであつて、その水源が自然の流水及び湧水であつたので、年月を経るうちに水面と接する部分が浸蝕されて、水面下に没し、数年置きに水底の泥を掘り出していた事実を認めることができ、そのために右溜池の水面部分が漸次拡大し、周辺の堤塘部分が浸蝕されて縮小するに至つたものと推認することができる上、本件土地が中川村に下附された当時における本件土地の実測地積及び位置形状が、現今のものと全く同一のものであつたとの確証もない(すなわち、繩延びの有無も判然としないし、<証拠>を仔細に対照精査しても、公図の測量図との位置形状関係が周辺の土地との関係において的確に符合せず、判然としない。)ので、本件土地の位置形状が、前記図面(二)記載の図面の斜線部分のとおりでなければならないとはいい得ないのである。

そして、<証拠>によると、勝田町には、本件溜池のほか、同町字谷八三番溜池一九八三平方メートル(谷池)と同町字丸澤二七八番溜池一一一〇平方メートル(丸沢池)があり、現今の宅地開発が行われる以前においては、右三箇の溜池の水量がこれを利用する農家の耕地面積に適合し、これらの溜池からの引水がなければ、水田の耕作が不可能であつたとさえいい得たので、これらの溜池を大事にして管理してきた事実を認めることができるのであり、このような事実を考慮に入れなくとも、一般に溜池の水面(水量)を管理するのに、水面を囲繞する堤塘部分が存在しなければならないことはいうまでもないのであつて、堤塘部分は、溜池を構成する不可欠の要素であるということができる。

更に、<証拠>によると、控訴人は、本件溜池のうちの堤塘部分(水面の周囲部分)に、昭和四五年一〇日ころには有刺鉄線柵を設置し、昭和四九年七月ころには金網のフエンスを設置して、本件溜池全体を管理していた事実を認めることができるのであるから、控訴人の管理権は、本件土地及びその地上の水面のみに止まらず、本件溜池全体に対して及んでいたものと見るのが相当である。

控訴人は、溜池は、水を満々と溜めることが管理である等と主張するのであるが、その主張のように水底のみの部分に該当するという本件土地を所有しているだけで、これを囲繞する堤塘部分の所有ないしは管理を欠いたのでは、右土地の上水部分に当たる本件水面を保有し、これを管理することはできないのであつて、控訴人が、本件溜池のうちには国有地があり、その部分については控訴人の管理上の責任が及ばない等と主張するのは理由がなく、失当である。

かえつて、国が、大正一一年三月三一日、本件土地を「公用ヲ廃止ノ上」無償で下附した事実に照らせば、国が、昭和五二年一二月に至つて、控訴人との間に、本件土地とその周囲の法地との境界を協議し、法地の所有権を保有しようとする所為に出た事実は、どのような意図によるものなのか理解し難いのである。

(二)  <証拠>によると、本件溜池は、大正一一年三月三一日、国から中川村に下附される以前から、近在の農家の灌漑用水を引水するための溜池として利用されていたが、国から中川村に下附された後においても、従前と同じように農家の灌漑用水を確保するための溜池として利用されてきたこと、本件溜池は、中川村が昭和一四年四月一日控訴人に編入された後も、同じように利用されてきたこと、本件溜池(権田池)は他の二箇の溜池(谷池及び丸沢池)とともに、同一部落(勝出部落)内に所在し、これらの溜池は、昭和三七、八年ころまでは約三〇町歩の水田のための灌漑用水池として利用されてきたのであり、昭和四九年六月当時においても、本件溜池は、二六名の水田五町一畝一五歩のための灌漑用水池として利用されていたこと、これらの溜池は、勝田部落の部落民が主体となり、これを利用する水田の耕作者によつて自主的に管理、運営されてきたのであるが、近年農家以外の者が増加し、溜池を管理する主体を明確にさせる必要が生じたこと等から、昭和四〇年三月、従前より勝田町に居住し農業を営む者が、勝田町水利組合と称する任意団体を組織したこと、同水利組合は、組合規約において、勝田町に所在する前記三箇の溜池とそれに接続する水路の維持管理に当たること等を目的とすると定め、その目的達成のため必要に応じ溜池と水路の掃除をし、干天時には池干しをすること等を組合の事業として定めたこと、同水利組合は、昭和四三、四年ころ、控訴人から補助金の交付を受けて、本件溜池の北側道路沿い部分の西端近くに、近代的巻き上げ式の水門を備えたコンクリート製の取水口を設置したこと、控訴人は、昭和四〇年三月、本件溜池を控訴人の溜池調書に登載するに至つたが、爾来本件溜池に対する勝田町水利組合の利用管理関係を容認し、同水利組合ないしその組合員が本件溜池に対して慣行水利権(慣習法に基づく水利権)を有していることを承認して、本件溜池の利用管理を同水利組合に任せることとしたこと、以上の事実を認めることができ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

右認定事実によると、本件溜池は、古くから農業用灌漑用水の溜池として利用され、その利用管理状態は、その所有権者が国から中川村へ変更した後も同じように継続し、控訴人としても、これを利用する者に慣行水利権が生じていることを承認し、本件溜池を勝田町水利組合ないしその組合員が利用管理することを容認してきたものである。

ところで、控訴人は、本件土地が控訴人の普通財産であるからこそ、本件水面に対する右水利組合ないしその組合員の慣行水利権を承認し、その利用管理を容認してきたものであると主張し、<証人>は、いずれも右の主張事実に沿う証言をしている。そして、<証拠>によると、控訴人は、本件土地を控訴人の普通財産(行政財産以外の公有財産)に該当するものと分類し、普通財産として管理してきた事実を認めることができ、<証拠>によると、控訴人が本件溜池を普通財産と分類している理由は、農業用灌漑用水は特定の水利権者のために利用されているものであつて、不特定又は多数の市民の福祉等を目的として使用されているものではないからである、というのである。

本件溜池は公有財産であるが、その水面に対する慣行水利権の法的性質については、これを私法上の権利に属するものであると解し得ないわけでもない。しかし、本件溜池を農業用灌漑用水として利用する慣行水利権を享有してきた者の帰属主体は、一定不変のものではなかつたのであつて、慣行水利権として容認される程の年月の経過のうちには、相続による一般承継や売買等による特定承継によつて、幾多の変遷を経てきたものであることが明らかであり、前記勝田町水利組合も、「従前より勝田町に居住し農業を営む者」をもつて組織すると組合規約に規定している(前記乙第六号証)に止まり、組合員の氏名を特定していないのであるし、同水利組合が、組合結成時以降における組合員の脱退加入を認めない趣旨を定めていると見るのは相当でない(組合員の脱退加入に関する規定は存在しない。)。

したがつて、本件溜池の慣行水利権者は、本件溜池からの引水を必要とする水田の耕作者に限られるという地域的限定は自ら存在するにしても、その耕作権を享有する者のすべてに及ぶ(このように解するのが合理的である。)という点から見れば、年月の経過に伴い不特定又は多数であつたと見るのが相当であり、更に、本件溜池が他の二箇の溜池(谷池及び丸沢池)とともに、勝田部落ないし勝田町の全域にわたる水田の耕作のため必要不可欠な灌漑用水として利用されてきた点から見れば、本件溜池は、まさに行政主体により直接に公の目的のために供用されてきた有体物であると見ることができるのである。

そして、本件溜池は、大正一一年三月三一日、国から中川村に下附された後においても、従前どおり農業用灌漑用水の供給源として利用管理されてきたのであるから、右下附と同時に本件溜池の公用が廃止されたと見るのは当を得ないものである。前記のように本件土地は、「公用ヲ廃止ノ上」中川村に下附されたのであるが、その趣旨は単に名目上のものにすぎなかつたものと見るのが相当であり、また、現今の宅地開発の進捗に伴い、本件溜池を農業用灌漑用水として利用する水田の耕作面積及び耕作者数が減少してきた事実(<証拠略>)は明らかであるけれども、これによつて本件溜池の効用が失われたとの事実を認めるに足りる証拠は存しない。なお、<証拠>によると、控訴人は、昭和五三年四月二一日、港北区勝田町水利組合(組合長佐藤正男)との間に、前記谷池について売買契約を締結し、その際同水利組合が控訴人に対し、本件溜池に係る一切の権利を放棄する旨約定した事実を認めることができるけれども、その約定は、本件事故発生後五年余を経過して締結されたものである上、本件溜池の効用(存続又は廃止)につき何ら触れていないものである。序でに、控訴人は、右水利組合との間に右のような売買契約を締結したのは、本件土地を含む勝田町所在の溜池三箇がいずれも控訴人の普通財産であることの証左であるというのであるが、控訴人が、公有財産の取得、管理及び処分について規則を定め(前記乙第一一号証の三)、本件土地を普通財産として取得、管理していたとしても、そのことは、控訴人の公有財産に関する事務の内部的分掌の問題であるにすぎず、本件土地ないし本件溜池が控訴人の行政財産に属するものと見るべきか、普通財産に属するものと見るべきかは、本件溜池の客観的効用がどのようなものであるかという観点から、客観的に判定されるべきものである。更に、控訴人は、本件水面の周囲に有刺鉄線柵を張り巡らして、一般人の出入利用を禁止しているから、本件水面を公共の用には供していないと主張するのであるが、そのことによつて本件溜池の農業用灌漑用水としての効用が損われたものでもないのであるから、控訴人の右の主張も失当である。

(三)  <証拠>によると、本件溜池の西方に市営、公社、公団の住宅団地ができ、かつ、本件溜池の貯水量が多量であつたので、港北消防署長は、昭和四七年三月一日、勝田町町会長関重吉の承諾を得た上、本件溜池の水面(水量二五〇立方メートル)につき、消防法第二一条第一項の規定に基づく消防水利の指定処分をし、本件溜池の北西端付近の堤塘部分に、「消防水利」と表示した標識を掲示したこと、勝田町内会会長鈴木光栄が、昭和五三年三月一八日、同法第二一条第三項の規定に基づき、港北消防署長に指定消防水利の解除願いを届け出たので、同消防署長は、同月二三日、本件溜池につき消防水利の解除処分をしたこと、以上の事実を認めることができる。

消防法によると、消防に必要な水利の基準は、消防庁がこれを勧告し(第二〇条第一項)、消防署長は、消防の用に供し得る水利について、これを消防水利に指定して、常時使用可能の状態に置くことができ(第二一条第一項)、その水利を変更し、撤去し、又は使用不能の状態に置こうとする者は、予め消防署長に届け出なければならず(同条第三項)、何人も、みだりに消防の用に供する貯水施設を使用し、損壊し、撤去し、又はその正当な使用を妨げてはならない(第一八条第一項)と規定されているのであつて、右に「常時使用可能の状態に置く」とは、当該水利の水量を確保し、常に消防機関が当該水利を使用できるよう、障害となる物件を整理しておくことをいい、右の「消防の用に供する貯水施設」には、消防署長が消防水利として指定したものを含むものと解されるのであるが、右第一八条第一項の規定違反については同法第三九条、第四四条第九号の罰則が、右第二一条第三項の規定違反については、同法第四四条第一一号の罰則がそれぞれ適用されるのである。

ところで、火災の現場に対する給水を維持するために緊急の必要があるときは、消防署長等は、指定水利でない私有の水利であつても、これを使用することができるのである(同法第三〇条第一項)が、消防水利として指定され得る対象物は、控訴人主張のように私人の所有財産と公法人の普通財産に限られるというものではないのであつて、公法人が消防以外の目的で設置、維持及び管理している水利、すなわち、ダム、堰堤、護岸工事を施した河川、湖等がすべてその対象物に含まれるのであり、これらは一般公衆の共同使用に供されている公共用物(行政財産)に該当する物なのである。

そして、本件溜池が、消防水利の指定を受けたことにより、慣行水利権を有する者であつても、その水利を変更したりしようとする場合には、事前に消防署長へ届け出なければならないことになり、かつ、消防署長は、本件溜池の水量を確保し、常に消防機関がこれを使用できるような状態にして置くことができることになつたのであるから、本件溜池は、消防水利の指定により、公の目的に供用される度合が、その人的関係及び利用目的関係において拡大されたものと見るのが相当である。

(四) 既に認定してきたように、控訴人は、本件溜池につき、これを農業用灌漑用水として利用する者の慣行水利権を承認し、右水利権者らにその利用管理を任せてきたものであり、原審証人佐藤正男の証言によると、右水利権者らは、古くから本件溜池から引水するための水路や取水口を設置し、引水の効率を良くするために水底の泥を掘り出し、草を刈り、水路の掃除をしたりしてきた事実を認めることができるのであつて、勝田町水利組合は、昭和四三、四年ころ、控訴人から補助金の交付を受け、巻き上げ式水門を備えたコンクリート製の取水口を設置するなどして、本件溜池を管理してきたものである。また、控訴人自体も、昭和四五年一〇月ころ、本件溜池の堤塘部分に有刺鉄線柵を設置し、昭和四七年三月一日には本件溜池を消防水利に指定し、「消防水利」の標識を掲示するなどして、本件溜池を管理してきたのである。

したがつて、まず、本件溜池は、自然の状態のままで利用に供されてきたというよりも、慣行水利権者らの手を通じ、長年にわたつて、人工が加えられながら利用に供されてきたものと見るのが相当である。そして、地方自治法第二条第二項、第三項第二号が、「溜池を設置し若しくは管理し、又はこれを使用する権利を規制すること」は、普通地方公共団体の行政事務である旨規定していることを持ち出すまでもなく、控訴人は、本件事故当時、本件溜池を管理していたものということができるのであつて、勝田町水利組合ないしその組合員が、農業用灌漑用水としての本件溜池を直接利用管理していたものであつたとしても、そのことは、控訴人の間接的な管理形態であるにすぎないものと見ることができるし、また、右水利組合ないし組合員の利用管理と牴触しない形態において、控訴人自体も、重畳的に本件溜池を直接管理していたものと見ることができるのであるから、控訴人の本件溜池に対する管理の実態に消長を及ぼすものではないのである。

(五) 以上のとおり縷々検討してきたところを総合すると、本件溜池は、控訴人により直接に公の目的に供用されていた有体物であるといい得るのであるから、これを国家賠償法第二条第一項に規定する公の営造物に該当するものと見るべきである。

三次に、本件事故の発生が控訴人の本件溜池の管理の瑕疵に基づくものであるか否かについて検討する。

(一)  <証拠>によると、本件溜池は、本件事故当時、不整形ではあるが、ほぼ正方形をなし、道路に面した北側辺の長さが約三九メートル、東側辺の長さが約四五メートル、南側辺の長さが約四一メートル、西側辺の長さが約三八メートルであつて、水面の面積が約一六〇〇平方メートルであり、その水深は一メートルから1.50メートルであつて、北側西端付近にある取水口の水門付近が最も深くなつていたこと(なお、当事者間に争いのない事実によると、水深は一メートルないし二メートルであつたというのである。)、本件溜池の北側堤塘部分は、その北側の道路とほぼ同じ高さになつており、その余の堤塘部分も周囲の水田等とほぼ同じ高さになつていて、堤塘部分は、自然の土壌が形成する法状になつていたこと、本件溜池の水面は周囲の堤塘部分より下方に位置し、その水面との間の高低差は一メートルないし二メートルあつたものと推測されること、北側の道路と水面との間には幅一メートルないし二メートルの堤塘部分があり、その堤塘部分の水面側は水面に至るまで急傾斜をなし、崖のようになつていたこと、昭和三七、八年から勝田町の都市化が進み、昭和四〇年ころ本件溜池の南西方約一五〇メートルないし二〇〇メートルの箇所に約一五〇〇戸を収容する横浜市営勝田団地が完成し、団地内に児童公園が設置されたこと、本件溜池の北側の幅員約四メートルの道路を隔てて、訴外富洋金属工業株式会社の敷地があり、その敷地内に同会社の本屋と従業員用の寮があつて、被控訴人澤田傳は、昭和四二年九月から同会社に勤務し、妻の被控訴人澤田美香子、長女美樹(本件事故当時八年一月)、二女明美(同六年五月)、三女美佐代(同四年一一月)、四女富美枝(同三年七月)及び五女直美(同一年)とともにその寮に居住していたこと、本件溜池の近くに二女明美の通園する中川保育園があつたこと、勝田団地などの住民が増加するにつれて、子供らが本件溜池に近付き、魚取り等をして遊ぶことが多くなつたこと、控訴人は、昭和四五年一〇月ころ、本件溜池の堤塘部分の全域にわたり、木杭を数メートル置きに埋設して、その間に有刺鉄線を二段ないし三段に平行に張り、重ねて一本を斜めに張つて、防護柵を張り巡らしたこと、右有刺鉄線柵は一、二年のうちに部分的に毀損してしまい、殊に道路に面した北側の取水口水門から東方約一〇メートルの地点付近では、約二メートルにわたつて有刺鉄線の全部が切断されてしまつたこと、三女美佐代は、事故当時身長一〇三センチメートルであつたが、五女直美と遊んでいるうちに有刺鉄線柵の右切断箇所から堤塘部分直下の水面に転落し、その場で溺死したこと、控訴人は、昭和四八年三月、本件事故が発生したこと等もあつて、右有刺鉄線柵を補修することを計画した(補修を必要とする理由として、「現在有刺鉄線の大部分が毀損し、その用をなしていないので」とした。)が、昭和四九年七月ころ、右有刺鉄線柵を撤去し、その跡に鉄製の支柱を用いた金網のフエンスを設置して、一般人が本件溜池の水面に近付けないようにしたこと、以上の事実を認めることができ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

(二) 右認定事実によると、本件溜池は、堤塘部分と水面との間に落差があり、しかも、水面付近の堤塘部分が自然の法状のまま急傾斜(むしろ崖状)になつていたので、その周囲で遊んでいると、時に足を滑らせて水面に転落する危険性が大きかつたものと見ることができ、また、付近に勝田団地ができて、人口が増加し、子供らが本件溜池に近付いて遊ぶことも多くなつていた上、本件溜池の水深が一メートルないし1.50メートルで、水量も豊富であつたことから、幼児や子供がその水面に転落すれば、堤塘部分に這い上がることも容易でなく、その身体生命に対する危険性も大きかつたものと見ることができるのであるから、控訴人としては、右のような転落事故が発生しないように、本件溜池の周囲に防護柵を設置するなどして、適切な安全対策を講ずべき義務があつたといえるのに、控訴人は、昭和四五年一〇月ころ、本件溜池の堤塘部分の全域にわたり有刺鉄線柵を設置したものの、本件事故当時には、その有刺鉄線柵が部分的に毀損し、北側道路に面した部分では約二メートルにわたつて切断されていたというのであり、全体としても防護柵としての効用をほとんど失つていたというのであつて、しかも、控訴人は、これを放置していたのであるから、控訴人の本件事故当時における本件溜池の管理には瑕疵があつたものと認めるべきである。

(三)  そして、本件事故の発生と控訴人の本件溜池の管理の瑕疵との間には相当因果関係があるといい得るから、控訴人には国家賠償法第二条に基づく損害賠償責任がある。

四次いで、被控訴人らの過失について検討する。

(一)  <証拠>によると、本件事故当時、被控訴人らの長女美樹は小学校二年生で通学し、二女明美は中川保育園に一年保育で通園していたが、被控訴人らの子供らは、前記富洋金属工業株式会社の敷地内で遊ぶことが多かつたものの、時には前記勝田団地内にある児童公園で遊んだり、本件溜池の付近で遊んだりしていたこと、被控訴人らは、本件溜池に張り巡らされた有刺鉄線柵が部分的に毀損し、殊に道路に面した部分で約二メートルにわたつて切断された箇所があることを知つていたので、その子供らに対し、危いから本件溜池に近付かないようにと言い聞かせていたこと、本件事故発生の日、被控訴人らは、午後零時すぎころ、寮内の自室で、三女美佐代、四女富美枝、五女直美と一緒に昼食をすませたが、午後零時四〇分ころ直美が「外に出たい。」と言つて泣き出したので、美佐代に対し、「ちよつと外に行つて来い。」と言つて、美佐代と直美を外に出してやつたこと、被控訴人らは、美佐代と直美が会社の敷地内で遊んでいると思い、休憩中の同僚がその両名を見てくれているものと思つていたが、午後一時一五分ころ直美だけが泥だらけになつて自室に帰つて来たこと、美佐代は日ごろ遊びに行つても、出入りが激しい方であつたので、被控訴人美香子は、それを気に止めなかつたこと、同被控訴人は、午後二時一五分ころ保育園に明美を迎えに行くために外に出たので、付近を見回して見たが、美佐代の姿が見当たらなかつたものの、美佐代は勝田団地の児童公園にでも遊びに行つたものと考え、特に気にすることもなく明美を迎えに行き、途中買物等をして、午後三時三〇分ころ帰宅したこと、同被控訴人は、そのころから心配になり、右児童公園や付近の山の中等を探したが、美佐代を見つけることはできず、午後五時ころになつて被控訴人傳や会社の従業員も改めて付近の山の中等を探したが、同じように見つからず、被控訴人傳は、午後六時五〇分ころ港北警察署大棚派出所の警察官に対し、美佐代の行方が知れない旨を届け出たこと、同警察官は直ちに本署の応援を求め、捜索を続けた結果、午後一〇時一四分ころ警察官が本件溜池の水底に沈んでいた美佐代の死体を発見したこと、以上の事実を認めることができ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

(二)  右認定事実によると、被控訴人らは、本件溜池の直ぐ近くに居住し、本件溜池や周囲の有刺鉄線棚の毀損状況を十分に知つていて、子供らが本件溜池付近で遊ぶのは水面に転落するおそれもあつて危険であることを知つていたのであり、また、美佐代は動作の活な子供であつて、遊び回る行動範囲も広かつた上、本件事故当日は外に出たいと言つて泣き出した直美を外に連れ出して遊ばせてやるということから、会社の敷地内で遊んでいるのに止まらず、敷地から外に出ることも予想し得たものであり、かつ、敷地から外に出れば、直ぐ南側の道路や道路を隔てた本件溜池の周囲付近で遊ぶことも予想し得たものであると推認することができるのであるから、被控訴人らとしては、美佐代と直美の幼児らだけを外に出すに当たつて、くれぐれも「会社の敷地から外に出ないように」と注意を与え、かつ、時折その行動を監視するなどして、同女らが危険の多い本件溜池の周囲で遊ぶことのないように留意し、同女らの身体生命の安全を図るべき監護義務があつたのに、被控訴人らが右のような監護義務を尽くしたとの事実を認めるに足りる証拠はなく、被控訴人らは、美佐代らが外に出た後、同女らをそのまま放置し、直美が一人で泥だらけになつて帰つてきた後も、被控訴人美香子はこれを気に止めなかつたというのである。

したがつて、被控訴人らは、美佐代の監護義務を怠つたものということができ、しかも、被控訴人らの過失の程度は大きいものであるから、これを五割と見て過失相殺をするのが相当である。<以下、省略>

(岡本元夫 長久保武 加藤一隆)

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